トマトはトマト

 

   

 

 後期高齢者になってしまった夫にとって、女性ファンは宝物である。彼女たちを繋ぎ止めておくための大切な武器である携帯電話の出番がここのところ多くなったような気配がする。気配というのは、その武器を使う場所をアトリエに限定しているらしいので、残念ながら、私にはわからないのだ。

 よその女性に電話などしたことはない、というように澄ましている割に、相手の近況、動向を把握していて、それを不用意に洩らすところが笑えてくる。

 私の持論だが、男も女も何歳になっても、自分を異性と認めてくれる相手が必要なのだ。私がそう言ったら「だから奥さんがご主人のことを思ってあげてればいいのですよ」と言った人がいるが、それは全然違う。妻じゃダメなのだ。夫じゃダメなのだ。

 そういった理由で、私は、夫が女性と深夜のアトリエで携帯電話で、こそこそと話していることにクレームをつける気は全然ない。それどころか、夫の電話をいやいやでも受け入れてくれる女性に密かに感謝さえしているのだ。

 

 

 そんな女性ファンのひとりから、トマトが送られてきた。高知産のフルーツトマトだという。トマトは野菜だが、そのトマトの頭にフルーツがつくということは、一体全体、野菜なのか果物なのか。トマトにしては小振りだが、見た目かわったところはない。

 知らないではない。行きつけの料理屋で懐石のコースのデザートに、何度か出た。高価な皿に鎮座ました丸ごとトマトの横には小さめのナイフとフォーク。確かに濃い味がするが、これは多分、私が子どものころに食べていたトマトの味なのだろう。野菜に季節感が無くなるのと同じスピードで味も変わっていったように思う。

 トマトが届いた翌朝、我が家の料理担当方の妹が、プレーンオムレツの横に、そのフルーツトマトの皮を剥いたものを4つ切りにして添えた。熱湯をトマトにかければ、皮だけが綺麗に剥けるのだが、このフルーツトマトには通用しなかったとかで、包丁で皮を剥いてくれていた。熱湯にもめげないということは、上等の印か、はたまた繊細さに欠けるということか。

 私が、トマトの一切れを口に放り込んだ瞬間、夫が毅然とした調子で言った。

「このトマトはこんなふうに食べるのではない。デザートに食べるのだ」

 私は、心の中で、はいはい、あなたの大事なファンからの贈り物ですからねえ、と悪態ついたが、私の口をついて出たのは、あくまで冷静、夫よりさらに毅然とした科白であった。

「明日から、主人はデザートで。私は、今朝と同じように野菜として」と妹に言っておいてから夫を盗み見たら、あきらかにその顔には焦りが見えた。

 愛媛生まれの夫は、果物の中では蜜柑が何より好きで、日に三度、食後に蜜柑を食べる。

 その蜜柑の代わりに明日からトマトが出るということは夫にとって悲劇以外のなにものでもないということを、妻の私は百も承知している。

「トマトは好きではない」と夫のささやくような本音が聞こえた。私は、じっと笑いをこらえていた。 

 その時、調理に難癖つけられた妹が、小さくつぶやいた。しかし、その声は、私よりも更にさらに毅然としていた。

「トマトはトマト。メロンやマンゴーにはなれない」

 妹の名言に、私は喝采を送ったが、ヤケクソになった夫は、

「ワシはメロンは大嫌いじゃァ」と叫んでいた。

 その日、なぜだろう、研ナオコの「かもめはかもめ」のメロディーが幾度となく頭の中で鳴り響いた。