「過ぎ去りし あの夏の日」 ―三分間の幸福

 三年前か五年前か、定かではない。子どもの頃あんなに長かった一日がどんどん短くなっていき、今では瞬きする間に一日が通り過ぎてしまうように思える日すらある。ともかく何年か前、庭師にまかせっきりでなく夫が芝刈りくらいはしていた頃の夏の午後の話である。
自宅の前に草風庵と名づけたゲストハウスを建てて十年余になる。私は夏の夕暮れになるとその一階の黒い木造のベランダに白いテーブルとロッキングチェアを置き、一人でビールを飲むのが好きだった。結婚してまもなくアルコールも煙草も止めてしまった夫は、芝刈りや水撒きを楽しむ。芝刈り機の音を聞きながら、私はひっくり返って空を見る。彼方に見える琵琶湖からの風に雲が形を変えながら流れていく。深い空の青に、沈んでいく太陽の終いの光を浴びた雲が浮かび、神が描いた模様とでもいえるような荘厳さだった。
「私、生まれてきてよかった。」
芝刈り機の音にかき消されないように大声をあげた。なにを又大げさなというふうに夫がこっちをちらりと見る。
「この空を見るだけで生まれてきた甲斐がある。でもたった三分間。あっという間に消えてしまう。昔、外国映画の中の少女の科白で、幸福は三分間しか続かないというのがあったような気がするけど、本当だわ。たった三分間。」
起き上がった私の前で夫が水撒きを始めた。その時、その水で虹ができた。私が豪勢に喜んだので、夫はしばらくの間、虹を作る作業に専念するはめになった。八月の残光と夫の手から湧いてくる水でできた小さな虹の向こうにぽつぽつと琵琶湖の回りの灯りが見え始めた。
「あの灯はどこかしら。」
湖の向こう側に見慣れぬ灯りを見つけた。それから私は思い出した。ロイヤルオークホテル。オーストラリアから来ている友人が阪神間で一番好きだと言っていたホテルだ。
「晩飯食いに行くか。あそこへ。」
彼の気が変わらないうちにと車に飛び乗った。
小さいがヨーロッパ調の洒落たホテルだった。地中海風のレストランと和食の店があったが和食を選んだ。メニューの中の一番高いコースを指さす夫を諭しにかかった。
「ねえ、あなた。今日は夫婦だけなんだから無駄遣いは止めて、安いのにしときましょう。」
「いやだ。俺は一番うまい物を食うんだ。」
「値段と美味しさは一致しないこともあると思うけど。」
私が彼を「ええかっこが背広着て歩いてる。」と言えば、彼は私を「意地悪が着物着て歩いてる。」と言う。まあ当たっているだろう。

しばらくもめたが結局夫は一番高いコースを選び、私は安い方にした。
「どんなに違うか試してみるから。」
二人とも値段は違うが懐石のコースを選んだので、まず先付が運ばれてきた。彼はちらちらと私の前にきた皿を盗み見していた。
「おい、それ間違ってないか。」
彼の言葉に二つの皿を比べてみた。そう言われれば、なんとなく私の方にいいものが入っているような気がする。器からして私の方が立派だ。
「そんなことないでしょ。間違える筈ないわよ。」
私の言葉に、彼はさらに不安を募らせた。次の料理も私の方が見かけがよかった。この辺りで夫の疑いは確信に変わった。今にも仲居さんに文句を言い出しかねない顔つきだった。しかし、次の刺し身の皿を見て、やっと納得の表情を浮かべた。彼の方に入っているトロが私の方にはなかったからだ。私がトロを凝視しているのを見た夫は、食べていいよと度量の大きいところを示した。いいわよ、あなたトロ好きなんだからと言ったものの、なにかに操られるように私の手が動き、彼の皿からトロをつまみ己の口にほうり込んでしまった。最後のご飯になった時、彼が私のと取り換えてくれと言った。私は喜んで換えた。半分くらい食べてから、彼にきいた。
「あなた、松茸ご飯嫌いになったの。」
その時の彼の顔を思い出すと、今でも可哀相になる。
「なに、松茸ご飯だと。畜生。」
目が少し遠くなりかかった彼の目には、小さめに切った松茸がちりめんじゃこに見えたらしい。私は我慢できず、クックックと喜んでしまった。デザートは、彼に上等のメロン私にはオレンジだった。夫のメロン嫌いを知っている私は、妻のいたわりを示そうと、交換を申し出た。しかし、先ほどのトロと松茸ご飯で気分を害している彼は、それを断固拒否した。
「いやだ。変えてやるもんか。絶対にメロンを食うんだ。」
窓の外には暗闇が広がり始めていた。窓ガラスには夫が写っている。嫌いなメロンにかぶりつく夫の横顔を見ながら、私はその日二度めの三分間の幸せに浸っていた。