「ワシャァ 山頭火になる」

 毎日が楽しいわけではない。心くじける朝もある。倒れこみたい宵もある。私にだってあるのだから、当然、我が夫にもあるだろう。大晦日の朝、
 「お前がそんなにワシをいじめるなら窓から飛び降りるぞ。」
とのたまった。ちなみに我が家は二階建てである。
 「どうぞ。よっぽど運がよければ死ねるかもね。」
 「頭から垂直に突っ込む。」
と予行演習を始める。数日前の伊丹十三の自殺がヒントになっているのはわかっている。
 「仕事が終ったら、山頭火になるぞ。」
最近の夫の口癖である。今、へそくりの真っ最中だという。目標額がいくらなのか知らぬが、貯まったら山頭火になるんだと言う。
 「山頭火は托鉢しながら旅したんじゃないの。お金なんていらないじゃない。」
 「世知辛い今の世で誰が恵んでくれる。生活費は持ってないと不安だ。」
 「でも風呂敷包みのへそくり背たろうて歩くと危険じゃないの。最近おやじ狩がはやってるっていうし。」
 「金は銀行に預けておいて、行く先々で引き出す。」
 「山頭火の時代より車が増えていて、歩くのも危険よ。」
 「ワシもミラで行く。高速にのるのは怖いから、地道をぐるぐる回る。」
 我が家にはベンツとミラがある。夫は決してベンツを運転しようとはしない。自宅とアトリエの一キロ足らずの距離だけをミラに乗る。二人ででかける時は私が運転するベンツの助手席で恐怖と戦っている。男の沽券にかかわるので彼は口に出さないが、自分の体の幅より大きい車は運転する自信がないのだと思う。
 「三度笠 被りてまたぐ 大晦日」
 「あら、もうへそくり貯まったの。出発するの。」
 「お前みたいに優しさのかけらもない女とは一緒にはおられぬわい。」
 「じゃあ、私も一句。優しさのォかけらを投げてェ大晦日ァ。」
私は速球を投げるピッチャーのように、夫の心臓にねらいを定めて腕を大きく回した。
 年が明けても、旅支度できぬ夫は、凍りつく真夜中に愛車のミラを駆ってアトリエに通っている。着膨れて雪だるまみたいなシルエットの夫がミラの中へ消えるのを見送りながら私はちょっと反省する。今夜あたり、やさしさのかけらをかき集めて夜なべ仕事にパッチワークでもしてみようか。夫がいつかミラでさっそうと、平成の山頭火としてデビューする時に、シートカバーくらいにはなるかもしれない。

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