「お喰いになられますか」

 数日前の新聞に興味深い記事があった。(今、その新聞を探してみたがみつからない。いつものことだが。)世界の28カ国でアンケートを取った結果、21世紀に必要になるだろう言語のトップは英語。これは万人が認めるところである。次がフランス語。後日このことをフランス人に話したら、大変驚いていたから、当のフランス人が自国語の失墜を認めているのかもしれない。ここまでは順当として、第三番目が日本語というのは意外だった。極東のこの小さな島国でのみ使われている言語がこれほどの評価を得ているとは。確かに近年、外国人による日本語習得熱が高いということは聞く。
 もし、これが事実で、外国で大勢の人間が日本語を習うとしたら、彼らはいったいどんな教師にどんな日本語を学ぶのだろう。なんだか不安になってくる。と言うのは、近年あまりにも日本語の乱れが激しいからである。言葉は常に変化していくものだということは承知の上で言うのだが、極度に醜い変化は避けて欲しい。時々、古い日本映画をテレビで観ることがあるが、一番驚くのは、登場人物の日本語の美しさである。それと、外国に住むお年寄りが使う正確な日本語に感動することがある。彼らは若い頃に使っていた日本語を今も使い続けているに過ぎないのだが、戦後私たちが失って久しいものを今も持っている。
 外国人が日本語を習得する際に、難しいことのひとつに敬語があげられる。確かに、敬語を完璧に使える人は極端に少なくなってきた。私が子どものころ、フランスでは娘の自慢をする時に、
 「うちの娘は美しいフランス語を話せますのよ」と言うのだと聞いたことがある。その時は、フランス人がフランス語を話せて、いったい何が自慢になるのかと不思議に思ったが、今、日本で、
 「うちの娘はすばらしい日本語を話しますのよ」と母親が言っても私は不思議に思わない。
 さすれば敬語は滅び去ったのか。いや、いや、皆、努力はしている。ここにひとつ、その努力をした男の涙なしでは語れない話を紹介してみよう。
 ある地方都市での出来事である。その町の名士で構成される会の主催で常陸宮殿下ご夫妻を迎える祝宴が開かれることになった。その会の会長はさる有名な神社の宮司であり、副会長はやはり有名な食品メーカーのオーナー社長であった。殿下夫妻をご案内していた時、宮司が、その土地の名産である河豚の話を始めた。殿下は話を合わせるように
 「ああ、ぼつぼつ河豚の季節ですね。」とおっしゃった。その時、副会長である社長が緊張で顔をこわばらせながら言った。
 「殿下も河豚をお喰いになられますか。」
 この言葉に一同、爆笑した。当の本人は、なぜ笑われるのかわからず、しかし、殿下に向かって発した自分の言葉が原因となっているらしいことはわかったので、ただ呆然と立っていた。一世一代の名文句、頭の中で繰り返し組み立てた言葉のどこがおかしかったのかわからない。敬語に必要な「お」はちゃんと付けた。「れる」も付けた。なぜだと叫びたいのを我慢して、顔を真っ赤にしたまま身動きできなかった。仲間が笑うだけではない、殿下ご夫妻も笑っておられる。特に妃殿下華子様は、われわれの言葉で表現するなら「腹を抱えて」お笑いになっている。笑いが少し鎮まって、社長の金縛りも解けかけたと思う頃、また、妃殿下が思い出したように可憐な声でお笑いになる。社長はまた動けなくなる。何度かそれが続いた後、さすがに殿下が、妃殿下の方に手まねで合図された。もう、その辺でいいでしょう、平民を笑い者にしてはいけません、というかのように。私の想像では、この会が終るまで、華子様は思いだし笑いの発作と戦っておられたのではなかろうか。
 その後、数ヶ月経って、今度は高円宮殿下ご夫妻がこの神社においでになって「お喰いになられますか」事件のことが話題に上がったが、その時、高円宮殿下がおっしゃるに、華子様は有名な笑い上戸で、いったん笑い出すと止まらなくなるということだった。
 この話を私に教えてくれたのは、いつも宮司の共をする、神社の宝物館の館長であるが、彼がその土地の方言を操りながら語ってくれたこの話に、今度は私の笑いが止まらなくなってしまった。
 「だって、だって、あんな有名な会社のオーナーが。」
 「いや、奥さん、彼のボキャブラリーの中には最初から、『召し上がる』なんて言葉は存在しないのですよ。『喰う』しかないのです。『食べる』も無かったんでしょう。彼なりに敬語を使おうと努力した結果が『お喰いになられますか』だったんですよ。それと、今思うに、あれはうちの宮司が仕掛けたのかもしれませんね。」  
 「まさか」
 「いや、あり得ることです。だって宮司が河豚の話なんか持ち出さなかったら、あんなこと言わずにすんだんですから。」
 私は、この話を思い出すたびに笑えてくるが、華子妃殿下も、河豚をお召し上がりになるたびに、あの愛すべき社長を思い出してクスクスお笑いになってらっしゃるのではないだろうか。