「けいこちゃん」

  けいこちゃん」から六十年ぶりの電話があったのは、昨年の暮だった。「けいこちゃん」の話は何百回というほど夫から聞かされていたが、私は、もしかしたら、それは夫の作り話ではないかと疑っていたので、正直仰天した。

 けいこちゃんは、夫が小学校に入ったころに近所に住んでいた女の子で、毎朝、「たいすけさん、行きなせんかァ」と迎えに来ていたという。上がりかまちにエラそうに腰かけた夫は、けいこちゃんに靴の紐を結ばせておいて、さっさと先を歩いていってしまうのが常だったらしい。それを夫の祖母が見咎めて「こらっ、けいこちゃんに靴の紐など結ばせたらいけんやないか!」と文句を言う。

 夫が繰り返す、海辺の町の朝のこの風景ののどかさは私の気に入り、最後は「けいこちゃんはワシに惚れとった」で終わるラブストーリーに結婚以来何度も付き合ってきた。まさか、けいこちゃんが童話の世界から平成の現実へと登場する日が来ることなど想像もしてなかった。

 今年の日本生命のカレンダーは夫の絵である。日本生命は大会社なので、カレンダーも何種類か出しているが、その中に六枚綴りの日本画のものがあり、その分を依頼された。

  何度かの打ち合わせの後、カレンダーは完成した。 

 そんなある日、デザイン担当者から電話があった。陽気で気持ちのよい男性で、初めて会った時から互いに打ち解け、何度か会ううちに冗談を言い合うほどになっていた。

 その彼が妙に深刻そうな声を出す。「先生にプライベートなお願いがあるので代わっていただけますか」

 横にいた夫に代わったら、「ああ、六十年前のことですよ」と言っている。訊くと、「けいこちゃんの息子さんからデザイン会社に電話があったらしい」と言う。

 勤務先から息子が持ち帰ったカレンダーを見たけいこちゃんは、「もしかしたら、これはあの宇和島のたいすけさんでは」と思い、息子に電話をかけさせたのだそうだ。

 それにしても、電話でのデザイン担当者の様子がおかしかったのはなぜだろうかと考えていて、ああそうだ、彼は会社に電話をかけてきたというけいこちゃんの息子を、夫の隠し子とでも勘違いしたんじゃないかと思いあたり、その由メールを入れておいたら、翌日「すみません。あれこれ詮索して」と返事が来た。あまりにも簡単に白状したので私は吹き出した。

 夫は、けいこちゃんと電話で話してから、自分の画集を送った。けいこちゃんの返事には「お会いするのは怖い」とあった。「長く生きていると、こんな楽しいことがあるんですね」とも書かれていた。

 電話で話した後、夫は「けいこちゃんの声がよくてよかった」としみじみした口調で言った。声には、その人の人生が出る。けいこちゃんが、まっとうな日々を送ってきたことを、その声が教えてくれたのだろう。

 夫は自分の画集を送る時には、「売れ残って場所ふさぎになっている」私のエッセイ集を同封するのが常だが、けいこちゃんには私の本は送らなかった。「惚れとった」のは、もしかしたら夫のほうではなかったのかと質そうかと思ったがやめておいた。六十年以上も昔の童話の中の少年少女の話である。