「事故証明書」

事故やスピード違反は、車を運転する者にとって逃れられないことである。私も一通りのことは経験したが、その中で最もおかしかったのが、次の事故である。
 免許を取ってから数年、少し運転に慣れてきた頃のことである。知人がある事件に巻き込まれ、その地方の刑事が事情聴取にうちにまで来ることになった。私は彼を迎えに西大津駅まで車で出かけた。私は駅の階段を降りてくるかなりの数の人間の中からそれらしい男を探した。なあに、わからなければ大声で名前を呼べばいい。が、幸いに、すぐにわかった。なにも刑事コロンボ風のよれよれコートを着ていたわけでもないし、特別目つきが鋭かったわけでもない。きちんとスーツを着た30代の勤め人風の男だった。名刺を見ると「知能犯課刑事」とあった。そんな課があったことにいたく感心を示す私に刑事は少々得意気な様子だった。和やかな雰囲気のうちに互いに自己紹介を済ませ、車を出した。知能犯課の敏腕刑事は私の助手席に坐っていた。比叡山への登り口にさしかかった時、前方左手にバイパスをぬけてきた車が停止していた。ここは事故の多い場所である。私はスピードをゆるめ、相手車が完全に停止しているのを確かめてから、アクセルを踏み直した。その時、止まっていたはずの車が私をめがけて飛び出した。もう少しで切り抜けられるところだったが、残念ながら私の車の左後部が捉まってしまった。買って一ヶ月ほどの新車だった。
「奥さん、脇の方に止めて。大丈夫。奥さんは悪くない。すぐに地元の交通課に電話しなさい。」
と、頼りになる口調で刑事が言った。向こうの車からは夫婦者が降りてきた。見るからに気弱そうな夫の方が運転していたらしい。動転してしまっているのか、ものも言えない状態である。そのかわり、助手席に乗っていた妻がまくしたて初めた。要するに自分たちは悪くない、ちゃんと確認してから出たと言いたいらしい。夫の方がおずおずと出してきた名刺を見るとNTTの職員だった。真面目だが小心そうなタイプの男だった。その内、警察の車が到着した。知能犯課の刑事は交通課のお巡りさんにひそひそと話していた。私は真夏の昼下がりの山道で、サンドレスから出た上半身がじりじり焼けていくのを感じていた。その時、交通課の囁くような声が聞こえてきた。
「綺麗な人ですな。奥さんですか。」
「違います。違います。」
知能犯課が、慌てて打ち消している。内心喜びつつ私は聞こえぬふりをしたが、刑事を迎えに来るには服装がカジュアルすぎたかと少々反省していた。NTTは相変わらずだんまりを決めこみ、その妻はがなりたてている。男は自分の過失を認めているのだが、それを言葉にすると、妻からどんな叱責を受けるかわからず、救いを求める眼差しを私の方に送ってくる。知るもんか。自分の女房を黙らせてからにしろ。私は気弱な中年男を見捨てることにした。後は保険屋にまかせることにして山道を家へ向かった。
ところが、今度は敏腕刑事が臆しだした。
「いやぁ、ご主人に合わせる顔がないなあ。迎えにきて貰ってこんな事故に巻き込んでしまって。会うのが怖いなあ。新車でしょ。」
私も主人も車を常にぴかぴかにしておく趣味はないし、形あるものはいつか壊れる。新車がへこんだところで文句を言う夫でないと知っていたので私は平気だった。
刑事を迎えに行ったまま帰らぬ妻を案じていた夫は、事情がわかりほっとしてにこやかに応対したので、刑事も安心して本題に入った。あなたは何も悪い事をしたわけではないのに申し訳ないとか、関係ないのにこんな時間を取らせてすまないとか、繰り返す刑事に、私は日記帳を持ってきて協力をした。その内、ミステリードラマの登場人物になったような気分で、私の推理によるととか、それは決め手にならないんじゃないですかと言い始めた私を刑事はやんわりと制した。
「奥さん、土曜ワイド劇場ではないのですよ。」
それでも結果的に私の日記が知人の発言が嘘ではないことを証明する形になったことに満足して、刑事を元の駅へ送っていった。彼はタクシーを呼んでくれと言い張ったが、遠慮だと思い私の車で送って行った。今から思うと恐怖心からだったのかもしれない。
後日、保険屋が来て言うには、NTTとその妻は頑として非を認めないらしい。あの日あの夫婦は道に迷ってうろうろしていたという。しかも夫の方は免許を取って一週間目だった。ノークラの車のブレーキから足がふっと離れたとしても不思議はない。初心者にはよくあることだ。専門家が見るとその状況から、明らかに向こうが悪い。しかし、動いている車同士の事故の場合、百パーセントどちらかが悪いということにするのは難しいらしい。そこで悪いが一割だけ支払ってくれと言う。私はすぐに承知した。あの夫婦とこれ以上かかわりは持ちたくない。
翌日、西大津駅近くの派出所へ事故証明を貰いに行った。事故車ではなく他の車で行った。帰りに西大津駅へ母を迎えに行く予定だった。派出所は大きな通りに面していたが、進行方向左手にあるので、難なく駐車スペースに頭から突っ込んだ。かなり年配のお巡りさんと年若いのの二人がいた。事故証明を貰い、母を迎えに行こうと車に乗り込んで、さてどちらに出ようかと迷った。いずれにしてもバックで出るしかないのはわかっている。大通りの向こうの車線にバックで出れば駅は目の前だが、車の往来が激しく、もしかしたら私の技術を越える作業になるかもしれない。進行方向に出る方が安全に違いないが、大変な遠回りになる。足の悪い母を改札で迎えて長い階段を降りる手助けをしなければならぬ私は時計を見て、高度な技術に挑む決心をした。左右のサイドミラーを何度も交互に見て、後に車がいないことを確かめた上でバックした。その時、衝撃を感じた。間違いなく何かにぶつかったのだ。思わずルームミラーを覗くと、ミラー全体に何かが映っている。何なのこれは、何事が起こったの。少ししてから、どこかの車にまともにぶつかっていることに気がついた。焦った私は、ともかく今出てきた駐車場へ戻ろうと思い、アクセルを踏んだ。ところがところが、よほど慌てていたのかギアをバックに入れたままだった。万事休す。もうどうにでもなれという気分だった。やっと派出所の駐車場に戻った私の後から、ジープ型の車が入ってきた。降りて来たのは私と同じ年頃の女性だった。
「あのぉ、さっきからそこに止まってらしたかしら。」
「そうですよ。だって信号待ちしてたんですもの。」
そう言われて見てみると、確かにそこには信号があり、今も数台の車が止まっている。あれだけ確認してからバックしたというのに、こんなに大きな車が目に入らなかったのはなぜなのだろう。しばらく考えてからやっとわかった。私はサイドミラーは見たがルームミラーを見るのを怠ったのだ。私の車の後にあまりにもぴったりと入っていたので、サイドミラーには映らなかったと考えるしかない。
「でも、奥さん、ぶつかってから又、バックに入れたままでアクセル踏んではったね。」
「えっ、わかりましたか。」
「当たり前じゃないですか。」
不思議なことに彼女はあまり怒っているようには見えなかった。ただただ呆れていたのかもしれない。私がまともにぶつかってその上アクセルを踏み込んだ車は、右側の後部ドアを大破した無残な姿をさらしていた。ともかくもう一度派出所へ入らねばならない。ところがさっきまでいた二人のお巡りさんの姿が見えない。私は奥に向かって大声で呼びかけた。この辺りから私の声はやけくそになっていたように思う。何事かと出てきたのは年配の方だった。
「事故証明、もう一枚。」
「あんた、さっき持っていったやないか。」
人のよさそうなお巡りさんは私の言葉の意味が飲み込めず、きょとんとしている。事情を話して電話を借りた。母が駅で待ちわびている。夫に電話して事故のことを伝えて、母から電話があったら少し待つようにと言ってもらわねばならない。いくらなんでも今度こそ夫も怒るだろう、でも内緒にしとくわけにはいかないので早いとこ白状しとくに超した事はない。しかし夫は怒らなかった。いや、ジープの彼女と同じく呆れてものも言えなかったのかもしれない。私が夫に電話するのを横で見ていたお巡りさんは、
「怒らはらなんだか。優しい旦那さんやなぁ。うちやったら、馬鹿者言うて、かみさん怒り飛ばすとこやな。ほいでも、事故証明取りに来て、又事故に合うやなんて気の毒で怒りもできんなぁ。」
半ば呆れ、半ば同情しながら私の顔を見ていた。
「それに、せっかくやけど、事故証明さっき渡したので切れてしもうた。また本署から仕入れとくから取りに来てや。」
今回の事故は一方的に私が悪かったのだから、全額弁償することを相手に告げた。その間使用する代車の分も合わせれば結構な額になりそうだったが、文句は言えない。ところで、相手のドアを蹴破った私の車は無傷だった。その後まもなく手放してしまったが、その頃わけあって引き取っていた、ベンツの500SLだった。中年女が乗るのに最もふさわしくない、若者が夢見るスポーツカーだった。よほどのスピードを出さないと、ハンドルが軽くならない、扱いにくい車だった。
事故証明は日をあらためて取りに来ることにして、ともかく母が待つ駅へ急がねばならぬ。安全な向きに出て遠回りしている余裕はさらになくなった。が、同じ危険を冒す勇気はなおさらに無い。その時、若い方のお巡りさんが現れたので、車を反対車線にバックで出してくれないかと頼んでみたが、左ハンドルは触ったことがないと言う。途方にくれて泣きそうな私を哀れと見たのか、決心したように言った。
「奥さん。こうしましょう。僕が道路に出て両側から来る車を全て止めますから、その間に出てください。」
そして彼は、ほんとうに道の真ん中に飛び出し、派出所の前を通りかかった車を全部ストップさせてしまった。一般人には無理だが、制服のお巡りさんには易しいことだったのかもしれない。でも、私は心の中で、彼に手を合わせた。停止さされた車の運転者たちは、何事が起こったのかと私の方を注視していた。その間をゆっくりと、たどたどしく、けれどにこやかさとSLにふさわしい威厳を保とうと努力しつつバックした。事故証明を取りにもう一度来ないといけないけど、その時はどんなに遠回りになろうとも、反対車線へバックで入るような横着な身の程知らずのことはすまいと決心しながら駅へ向かった。
その翌日、保険会社から電話があった。
「あ、奥さんですか。先日の事故の他に、今度は息子さんが事故を起こされましたね。」
私は一瞬、何のことかと思ったが了解した。二度めの事故はあのスポーツカーだもの、中年女が乗るはずはないと、係りの若い女性が決め付けているのだ。しかし、息子に罪をなすりつけるわけにはいかない。
「いいえ、私。二つとも私です。笑わないでね。初めの事故の証明書を貰いに警察へ行って、そこから出る折に二度めの事故に合ってしまったの。」
私の言葉を聞いた彼女はこともなげにこう言った。
「あら、ご自分で事故証明なんて取りにいらっしゃる必要はなかったのですよ。サービスとしてこちらで用意することになっていますから。」
「なんですって。なんで早く教えてくださらなかったの。それを知っていたら、第二の事故は防げたんですよ。」

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