「あげる」

 今日も夫は、テレビに向かって罵りの言葉を吐くのに余念がない。
 「何だと。いい加減にしろ。選手に言ってあげたいだと。それが野球解説者の言葉か。」
 「なにぃ。ご懐妊。芸能人にご懐妊で、天皇陛下が来ただとぉ。どうなってるんだ、この国は。」
私は、諦めている。テレビに向かって怒るエネルギーは節約したい。もう若くはないのだから。
 近頃の子どもの、将来なりたい職業の一位は芸能人だという。芸能人イコールテレビに出る人という意味だろう。そのテレビに出てくる連中が、日々、汚い日本語を吐き散らす。ごく一部のアナウンサーを除いて、正しい日本語を使える人間がいなくなってしまったのではないかとさえ思う日がある。
 芸能人にだって敬語を使える人もいる。いや、使おうと努力していると言ったほうが確かか。その証拠に、やたらと「いただく」を連発する。「結婚させていただく。」(そんなの勝手にしろぃ。)
 「番組に出させていただく。」(謙虚でいいが、すっきりと「番組に出る」でいいんじゃないの。)まあ、これらの言葉は聞き苦しくはあるが文法的な間違いはない。ところが、次の「いただく」はまったくいただけない。相手にマイクをつきつけて、「朝食に何をいただかれましたか。」と、上品そうな口調で言うレポーター。それを言うなら「何を召し上がりましたか。」ではないのか。ついでに言うなら、「おっしゃられる」ではなく「おっしゃる」である。これは多分、「おっしゃる」と「言われる」をくっつけて最上級の敬語にしようとした結果であろう。敬語を使わねばという脅迫観念からか、犯罪者にまで敬語を使うレポーターまで登場する始末である。
 私たちは小学生のころ、学校で敬語の使い方を習ったはずだ。敬語には尊敬語、謙譲語、丁寧語の三種類があることや、敬語にも段階があって、ちょっとした敬語、最上級の敬語など、使い分けねばならないこと。そして、間違っても先生に敬語なしで話し掛けることはなかった。先生と生徒が友達言葉で話すようになったのはいつからだろう。息子が小学生のころだったか、その教室に入り、妙な違和感を覚えたことがある。すぐに気がついた。教壇がなくなっている。教卓はあるのだが、それは生徒と同じ高さの床の上である。私の子どものころは、教卓はかなり高い教壇の上にあった。授業中、指されて黒板に書きに行く時など、あの教壇をあがることにかなりの決心がいった。おおげさに言えば、別の世界へ行くことであった。心の準備をした上で深呼吸して教壇に上がった。それが今はない。先生も生徒も同じ高さでいましょう、同じ権利を持っているのですよ、同じ給食を食べて、同じ言葉を使いましょう。そう、そして敬語はなくなった。
 小学校の教師をしている友人に、なんで近頃の子どもは先生に敬語を使わないのか訊いたことがある。どうも自分に対して敬語を使えと言いにくいらしい。でも、それはおかしい。教師の役目が教育であり、教育の最も大切なことのひとつである母国語の習得を考える時、生徒にどう思われようと断固として教師に対して敬語を使わせるべきである。
 近頃気になる日本語はいっぱいあるが、その最たるものが冒頭の「あげる」である。犬にえさをあげる。花に水をあげる。塩を小匙一杯入れてあげる。(テレビに登場する料理人の殆どがこう言う。小匙一杯入れる、と言う料理人がいたら、はっと顔を見直す。)「やる」はそれほど汚い言葉か。犬に餌をやる、花に水をやる、子どもに教えてやる。どこが悪い。
 ああ、このような人を教養人というのだなと感心している時に「あげる」言葉を使われるといっぺんにいやになる。騙されていたような気分さえしてくる。テレビを見ていて、登場人物はちゃんと「やる」と言っているのに、画面の下の字幕に「あげる」となおしてある。新聞記事でも同じことがあった。有名なスポーツ選手の父親がインタビューに答えて「ほめてやりたい」と言うのをテレビで見たのに、翌日の新聞には「ほめてあげたい」になっていた。こんなふうに勝手に改悪しても許されるのか。こんな悪質なおせっかいやきの新聞記者を放置していいのか。以前は、新聞記事は正しい日本語で書かれていると信じていたが、近頃、そうでもないことに気がついた。信じられないような間違いをおかす記者がいる。先日も、スポーツ欄で、いい成績をおさめた有名テニスプレイヤーのことを書くのに「彼女は、よく頑張ったと思うと、自画自讃した」という表現を使っていた。失礼ではないか。自画自讃というのは、誉め言葉ではない。自分で描いておいて自分で誉めるという、ひとりよがりな風を表す折の言葉である。デスクもすべての記事に目を通すことはできないのだろうが。
 この「あげる」言葉の連発に比べれば「ら抜き」言葉など可愛いものに思えてくる。「寝れる」「食べれる」「見れる」数え上げたらきりがない。でも、言葉は変化していくという観点から見れば、目くじら立てるほどのことではないのかもしれない。21世紀の中頃には「えっ、昔は寝られる、食べられる、なんて言ってたんですか。あっ、そう言えば、うちのおばあちゃん、たまにそんなおかしな言葉使うことある。ふーん。」なんてことになりかねない。
 先日、ある百貨店のエライ人に会った。オーナー一族の一員なので邪魔にはできないが、ちょっと面倒くさいといった雰囲気の老人で、皆に敬遠されているのがわかったので、私がお相手した。夫は私を世界一の意地悪女と太鼓判を押す。私も反論はしないが、老人や弱者には優しくしてしまう癖がある。果たして、その会話は楽しいものとなった。嬉しいことに、彼は明快に「あげる」言葉を分析してくれた。
 「あれはね、赤ちゃん言葉、幼児語なんですよ。ほら、動物園のゴリラの檻の前で、お母さんが子供に言ってるじゃないですか。『ゴリラの太郎ちゃんにこのバナナをあげまちょね』」
 そうだ、そうだったのだ。となれば、今の日本人は一億総幼児化しているわけだ。もう少しおとなの魅力を漂わせてみたい。国際人と呼ばれるために必要なのは、英語力よりも、まずおとなになることではないか。