「ポートピアホテル26階」

 平成7年1月17日のあの時、私は夫と共に、ポートアイランドに建つポートピアホテルの26階にいた。前夜、パーティの二次会三次会をこなし部屋に戻ったものの寝付けず、ベッドの中で本を読んでいた。夜が明けたら皆と一緒に朝食をとり、家へ帰らねばならない、早く眠らないとと思えば思うほど目が冴えてくる。諦めて朝まで本を読んでいようかと思ったが、いつのまにかうとうとしていたらしい。気がついた時、私はツインベッドの狭い間にしゃがんで、夫にすがり付き助けてと叫んでいた。布団に頭を押し付け目を閉じて周囲を見ないようにした。この間、夫のベッドサイドの背の高いスタンドが飛び、風呂場との境の壁がぱこぱこ、くっついたり離れたりしたらしいが、なにぶん私はただただ怯えて縮こまっていただけで何も見ていない。
 「放せよ、放せったら」
 「いやだ、怖い。私から離れないで」
 「馬鹿。そんなことしてたら逃げられないじゃないか」
それでもしがみつこうとする妻の手を振りほどいて夫は敢然と立ち上がった。先ず、窓の方へ進み、外を覗った。地震の際は窓に近寄らないというのが鉄則だ。ガラスの破片で足を怪我することが多いからだ。彼はこれを十分知っていたが、窓ガラスが壊れる様子はないので、先ず何が起こったのかを確認したという。
 「なんなのこれは、地震なの」
 「早く逃げないと」
 「やっぱり逃げないと駄目なの」
 「決まってるじゃないか。早く服を着て」 後になって夫は、僕は一瞬の間に身支度したのに女房がぐずぐずしてたのでと、会う人ごとに自慢していたが、私は、あの夜もいつもと同じように夫は洋服を着たままで寝ていたのではないかと疑っている。極端な風呂嫌いの夫は滅多に風呂に入らない。家でも入らない人がホテルで入るはずがない。もちろんあの夜も入らなかった。着のみ着のままで寝ていたんだから、支度が速いのは当然だ。
 地震の最初の揺れと同時に停電はしたが、同時に非常灯が点いたので、室内は暗くはなかった。暫くしてアナウンスがあった。現在火災は発生しておりませんから落ち着いてくださいという意味のアナウンスだったと思う。一呼吸おいて次のアナウンスは、一階ロビーへ避難してくださいだった。その間、ウゥーというサイレンが鳴りっぱなしだった。この音はそれから長い間鳴り続けて、私たちの恐怖心を煽った。
動けない私の為に、夫はクローゼットから私のスーツを出して、ベッドの上に並べてくれた。幸運なことに、いつも着物の私がこの日は洋服だった。行きつけの美容室が休みだったのと、買ったばかりの黄色のスーツとこれまた黄色のオーバーコートを着てみたかったこともあり、めずらしく洋服で出かけていたのである。
 「どうした。早く着ろよ」
 「ブラジャーがないのよ。どこへ置いたのかしら」「そんなもんどっちでもいいじゃないか。死ぬぞ。」
 「ブラジャー、ブラジャー、私のブラジャー、どこなの」
やっとボストンバッグの中にそれを見つけた私は、スーツを身につけた。それから荷物をボストンにつめた。その間に夫は部屋の外を偵察してきたらしい。さあ行くぞという、夫の掛け声と共にドアの外へ出た。夫のコートのポケットには部屋の鍵とベッドの横にあった懐中電灯がしっかり納まっていた。右手に自分の荷物、左手に私のボストン、後に妻を従え、夫は勇敢な一歩を踏み出した。私はと言えば、慣れないハイヒールを履いて、よたよたとついて行くだけだった。私は非常階段の手すりにつかまりながら下りたが、両手に荷物の夫はただただ自分の  二本の足だけを頼りに、26階から地上を目指していた。
前にも後にも誰もいない。なぜなの、宿泊客は私たちだけじゃないのに。不審に思いつつ、ひたすら曲がりくねった非常階段を下りていった。
 「大丈夫か、頑張れよ。もうちょっとだ」
非常時がそうさせるのか、夫はいつになくやさしい声を出した。もう若くはない夫は、度々躓きそうになる。
 「あなたこそ大丈夫なの。転ばないでね」
言いながら私は、夫が持った私のボストンの中味を思い、少なからず気がとがめた。中には大きな辞書が2冊と何冊かの本が入っていた。夫が中味を知ったなら、きっと放り出してしまっただろう。その時は興奮していたせいもあってか、重過ぎるボストンの中味を私にきくことはなかった。このことは絶対に言うまいと思いながら、落ちてきた壁のかけらで汚れた踊り場をいくつか通り過ぎた。私の頭の中には、妻は夫を慕いつつ夫は妻をいたわりつつという浪花節がBGMとしてがんがん響いていた。もう一息だという夫の言葉に、何階まで下りたのか確かめようとフロアーナンバーをみあげた私の目に16という数字が見えた。一気に下りられるのは、せいぜい10階だとこの時知った。何階くらいまで下りた時だったろう、下から懐中電灯を持ったホテルの従業員が上がって来た。懐かしい気持ちがした。部屋を出てから初めて見る人間だった。少し気持ちが楽になって、さらに一階を目指した。
 おかしなことだが、揺れている部屋で逃げる用意をしていた時も、サイレンの中26階もの階段を駆け下りていた時も、私に死の恐怖はまったくなかった。私は死ぬほどの事態に遭遇したことがない。まず戦争を知らないし、自然の災害のあまりない地方で生まれ育ったので、そっちの怖さも知らない。あの時、これが何千人もの死者を出す地震と知っていたなら、荷物なんて放り出して逃げただろう。ブラジャーなしでスーツを着たに違いない。あの時点では死者が出るなどと想像もしていなかった。
やっと一階ロビーにたどり着いたら、もうかなりの人が下りてきていた。こんなに人がいるのに、どうして階段を下りている時、誰にも会わなかったのか不思議だが、後になってこんなことをいう人があった。
 「もっと速く下りたかったのに浜田さんがいたから、追い越すと悪いと思ってゆっくりになってしまったんですよ」
ということは、当然のことながら私たちの後から下りてきていた人があったということである。足音さえ聞こえなかったのは何故だったのだろう。
 ロビーはまだ薄暗かった。中央に飾ってあった大きな花は倒れ、周囲の鉢植えも全て倒れていた。早く降りてきた連中は、ロビーに置いてある椅子に坐っていたが、さすがにシャンデリアの下を避けて、端の方へ椅子を運んでいた。シャンデリアは無事だったが、いつ何時、次の揺れが来て、シャンデリアが落ちてこないともかぎらない。それぞれが落ち着けそうな場所を見つけて、フロアーの一角に座り込んだ。椅子の数はしれていて、床の段になった所を見つけて坐る者の方が多かった。私たちは三十人くらいのグループで泊まっていた。
 前夜のパーティに出席したばっかりにこの地震に遭遇したのだが、実はこの集まりへの出席を一度は取りやめた私たちだったのだ。この集まりは、嵯峨御流という生け花の神戸支所の新年会だった。この流派の本部が大覚寺にあり、夫がこの寺の襖絵を数年前に描いたという縁から生け花の人たちとも親しくしていた。特に神戸支所長と仲が良かったこともあり、一年に一度の新年会には必ず出席していた。この年の新年会にも出席の返事をしていたのだが二日前になって夫婦で風邪をひいて高熱を出してしまった。夫は一年中風邪薬を飲んでいるが、寝込むほどの熱を出すことは珍しい。私の方は、前に風邪をひいたのがいつだったか思い出せないほど、風邪に縁がない。そんな二人がそろって熱さましの世話になり、かなりひどい状態になってしまった。神戸まででかけるのは無理と判断してホテルに断りの電話をした。主催者側で宿泊用の部屋をとってあったのでキャンセルしておかないと迷惑をかける。前日になって、ふっと気になってもう一度ホテルに電話して確かめたら、立食スタイルのパーティでなく、椅子にかけてのものだという。また悩み始めた。二人分の席が抜けるのは悪い。それと、熱が治まってきたこともあって、私は再び電話して、キャンセルのキャンセルをした。こうして私たちは神戸行決行へ突入することになってしまった。
 パーティは500人ほどの大きなものだったが、大部分が神戸の人間だったのでホテルに泊まる必要はなくそれぞれの家に帰っていった。泊まったのは九州、四国、東京のような遠くから来ていた者と、私たちのように遠くはないが夜中に帰るにはちょっとという京都組だった。華やかなパーティとその後にくる惨事は、映画のワンシーンのように思い出される。

 ロビーに集まって来た宿泊客の中には外国人も何人かいた。ホテルのタオル地のバスロ-ブから毛むくじゃらの長い脚を出し青ざめている。避難を呼びかけるアナウンスは日本語でしかなされなかったので、理解できない外国人はどんなにか怖かったであろう。私たちのグループの中にはホテルの浴衣姿のままの女性もいた。経験したこともない揺れに驚いて鍵も持たず廊下に飛び出したものだろう。他の女性からコートを肩に被せてもらって泣いていた。
 まだ明けきらぬ空のもと、薄暗いロビーで缶入りのジュースやウーロン茶とパンの配給があった。普段は目覚めたとたんにはらぺこ状態の夫が食べ物に手を出さなかった。この世で一番怖い物が地震だった彼がどんなにショックを受けたかは、無事帰宅してから一週間アトリエの愛用の椅子に座り込んだままだったことが物語っている。私もパンにもジュースにも手を出す気がしなかった。直前にトイレに行って悲惨な状態を見ていたからだ。懐中電灯を借りてトイレに行った私を迎えてくれたのは、便器に山積みになった汚物だった。用を足す気も失せ、飛び出した。水が使えるようになるまで決して飲み食いすまいと思った。
 その時突然、大きなライトが近づいてきた。テレビかしら、でも早すぎる、そんなはずはない、もしテレビならどうしよう、毛布を被った難民スタイルで撮られたくない、それよりもなによりも素っぴんだ。自慢じゃないが、私は素顔と化粧した顔が別人のように違う。自称「別人28号」と古いギャグでごまかしてはいるが、できることなら家族以外にさらしたくない。愛情あるいは慣れを持って見ないと、その落差に耐えられないからだ。不安に怯える私の為に夫が確かめに行ったら、テレビカメラであることに間違いはなかった。たまたま泊まりあわせたカメラマンが早速活動を開始したものだったのだが、偶然にそれより数ヶ月前、新潟で夫の一時間番組を放映した時のスタッフだった。彼は暫く夫と喋っていたようだが、こんな所でぐずぐずせずすぐに町中へ行けと言う夫の言葉で神戸の町へ飛び出していった。ありがたや、私の難民風素っぴんはテレビカメラから免れた。
 少しずつロビーが明るくなっていった。それと共にかすかに残っていた暖房のぬくもりも消えていき、私は新品のレモンイエローのコートの裾をひっぱりながら、帰ったらクリーニングに出さなくっちゃとぼんやり考えていた。グループ内の人間が全員無事でいるかどうか、互いに確かめ合っていた。当然、何人かのメンバーが私と夫の所へもやって来た。もし私が夫と一緒でなかったら、私のことはわかってもらえなかったというか、ばれずにすんだだろうが、悲しいかな、すぐに見破られた。相手は遠慮がちに私を見ていたが、その好奇な眼差しは多くを物語っていた。私は被っていた黒いベレー帽をさらに深く被り直した。
 震源地の真っ只中にいたが故に、逆に情報から切り離され、私たちは何事が起きつつあるのかわからぬまま、地面に坐っていた。私はさっきから、化粧をしようかどうか迷っていた。大事件に巻き込まれ、決着はみないが小康状態である。他に何もすることはない、けれど、ここで化粧など始めるのは恥ずかしい行為だろうか、でもますます明るくなっていくロビーで、これ以上素っぴんでいるのば耐え難い。日の出を待つ吸血鬼の気分でいた私の5メートルほど向こうにいたおばさんがおもむろに化粧を始めた。
 「ねえ、あなた。あのおばさんが化粧をするなら、私がしてもおかしくないかしら」「まあ、いいだろう。したかったらすればいい」
 夫の許可を得て、鏡を出したが、さすがに本格的にメーキャップするのは憚られ、簡単に白粉と口紅と眉墨だけを使った。本心を言えば、きちんとしたかったのだが、ぐっと我慢した。
その内、ポートピアホテルの中内社長が現れた。自転車と徒歩で駆けつけたということだった。飲み物も食料も十分にあるから安心するようにとの言葉にほっとしたが、一番欲しいのは情報だった。地震の直後は携帯電話もかかったが、まもなく通じなくなった。公衆電話の前の行列は長くなるばかり、ホテルが準備してくれたフロントデスクの上の電話も役に立たない。行列に並び、やっとのことで私は実家の母に電話した。
 「えっ、神戸行きは取りやめたんではなかったの」
 「熱が下がったから来てしまったの。でも生きてるから安心して」
ポートピアホテルの電気や水の復旧は素早かった。自家発電と水も屋上に溜められたものをトイレに流すことで、昼過ぎにはトイレが使えるようになった。こんなに感動したのは久しぶりだった。普段はごく普通のこと、トイレの水が流れるという、そんな単純なことが叫びだしたいほど嬉しかった。後になってテレビで避難所の様子を映す度に、画面には映らないトイレのことを一番に思った。
 私の一人息子は、この時、カナダに留学中だった。ノースバンクーバーのアパートでテレビニュースを見ていたら、喋っているアナウンサーに一枚のメモが手渡されたそうだ。緊急ニュースかなと思ったところ、アナウンサーの口から出たのは日本に大変なことが起きたという意味のことだったので、画面を見つめたらその途端にコマーシャルに変わってしまったので、なんとも言えない気持ちで待っていたところ、次に映ったのが、あの壊れた阪神高速道路だったという。一瞬、日本全体がそんな状態になってしまったと思ったらしい。ともかく電話をと、我が家の番号を回したが繋がらない。交換手に確かめたところ、「現在、7で始まる地域にはかからなくなっている」ということだったので諦め、我が家近くに住む友の携帯を鳴らしたらしい。どうやら比叡平は無事らしい、しかし、かなりの揺れだったと聞き、念のため我が家の偵察を頼んだら、当然のこと車がない。早朝から車がないということは前日からどこかへ旅行しているということだと判断した息子はほっとしたらしい。まさか、震源地に行ってるとは夢にも思わなかっただろう。次に、息子は、姫路にいる私の母に電話を入れた。
 「ミロちゃん。大変。お父さんとお母さんが神戸に行ってる」息子の頭の中は真っ白になったことだろう。
 「でも、生きてるから」
 中内社長の発言通り、ロビーに閉じ込められた宿泊客に食料は十分にふるまわれた。地下の食堂でビュッフェスタイルのご馳走にありつくことができた。アルコールは一切出なかった。ワインは殆どやられたと聞いた。
 その内、仲間の中には、26階の自分の部屋の冷蔵庫までビールをとりに行く者が出てきた。その前に、コンタクトを洗面所に置いてきた作曲家が、どうしても取りに上がると言う。友の言葉に夫は、危ないからよせ、又揺れるかもしれない、命懸けで取りにいくほどの物ではないと引き止めたが、作曲家は買ったばかりのコンタクトを探すために敢然と立ち上がった。階段を半分近く上がったが、そこからシャッターが閉まっていて行けなくなったらしい。ホテルのスタッフに教えられ、別の道から部屋へ到達できたという。ということは、その時すでに、ホテル側では危険は通り過ぎたと判断していたということになる。いや、違う。あの経験したこともない地震の後で、正確な判断を下せる者など誰もいなかっただろう。独自の判断で動くほかなかったのだ。彼のコンタクトは果たして奇蹟的に風呂場の排水溝の入り口近くに落ちていた。彼はせっかく26階まで歩いて上がったんだからと、ビールも持って降りてきた。それからだ、何人かがビールの為に、長い階段を上がっていくようになったのは。私は、よくもまあ、缶ビールの為に26階まで登って行けるとあきれていたが、じゃあ奥さんは飲まないのだねと言われると、真っ先に一缶をひったくって飲んだ。
 その内、ホテルの外へ偵察に出る者がでてきた。そして、偵察結果を持ってきてくれる。三宮方面に煙が上がってるとか、火の手が見えたとかいう情報が入りはじめたが、死者が出たとはまだわからなかった。
 電気が使えるようになった時、私たちのグループの一人が、中内社長にテレビを要求した。すぐに、フロントデスクの上に普通くらいの大きさのテレビが出てきた。さあこれで事態がわかる。皆、テレビの前に集まった。なんと、多くの死者が出ている。そして、時を追うごとに死者の数は増えていく。この数は、その後、想像もできない数字に膨らんでいくのだが、私たちがテレビを見始めた時点では、大きな数ではなかった。
 午後になってトイレも使え、電気も通じるようになると、ロビーの客たちも落ち着きを取り戻したが、ホテルを発つ許可は出なかった。というより、外がどんな状況になっているのかわからないので出るに出られなかったという方が当たっているだろう。その頃になると、ホテルの近くの住民がホテルのロビーに入ってきたりした。民家よりは安全そうだし、食料もたっぷりあったから、機転のきく人だったのだろう。いちいちチェックするスタッフもいなかったから、何人ほどの人が紛れ込んでいたのかは知らない。そういった人は、キャンディを我々に配ったりして好意を示した。夫など、その中の中年女性からトランジスタラジオを借り受けてニュースを聞いていた。
 「どうしたの。そのラジオ」「わからん。よそのおばはんが貸してくれた。」
 「返すんでしょ。」
 「うん。だけど、どのおばはんか忘れた」
 そういったふうで、ロビーにいる人間全体に仲間意識が芽生え始めていた。
夕刻近くになって次のようなアナウンスがあった。
 「もう一泊ご希望の方は、フロントまでお申し出ください」
ホテルから出ていかれないなら、当然もう一泊せねばならない。それなら全員ということになって、わざわざ申し出る必要もないのにおかしいと思ったが、一応、ツインを申し込んだ。できるだけ低い階にしてくれということを言い添えるのを忘れなかった。もう一泊するなら、すぐにでも部屋へ入って休みたかったが、地震によって壊れた品を撤去したり元に位置に直すのにまだ暫くの時間が必要だった。
 もう一泊する為に私たちに準備された部屋は、新館の低い階だった。新館にいく途中にブティックがある。早朝だったので、シャッターは降りたままだったが、格子のシャッターだったので、殆ど全ての商品が棚から落下して散乱している有様がよく見えた。あらためて揺れの大きさがわかった。このホテルが営業を再開するのにどのくらいの月日がかかるだろうかと、私なんかには決して解るはずのないことを考えながらブティックを通り過ぎた。
 夫とともに部屋に入った。壊れた物は片づけられていたので、一応きちんとした部屋である。一番にテレビをつけたが駄目だった。前夜泊まった部屋では、スタンドは吹っ飛んだが、テレビは台から落ちなかった。この部屋では、テレビが落ちて機能が壊れたらしい。いずれにしても疲れていた。いつここを出られるかわからないが、ともかく眠っておくことにした。その時、私は考えた。また、いつ揺れが来るかしれない。逃げ出す時に慌てないですむように、化粧はしたままで眠ろう。風呂もシャワーも使わず、洋服のままでベッドに入った。周到な準備をして眠りについた私の勘は当たった。夜明けに、部屋中に響き渡るアナウンスがあった。「自家用車でいらしているお客様のみ、ポートアイランドを出られることになりましたが、午前六時半までとします」」そんな内容だった。跳び起きた。荷物はまとめてある。服は着ている。化粧はしている。準備万端整っている。ゴーサインを出す前に何気なく部屋の鏡を覗いた私は、ぎゃーと叫びそうになった。何と鏡の中には、確かに素顔ではないが素顔より怖い私の顔が写っていた。アイラインは目の下にべったり、まるでパンダだ。口紅は唇からはみ出し、ファンデーションは油でぎとぎと。
 「さあ、行くぞ」「ちょっと、ちょっとだけ待って。お化粧なおすから」
 「夕べからして寝たんじゃないのか」
 「そうなんだけど。でも、でも。これはあんまりよ」
 私は数十秒で、見苦しい顔を普通近くまで訂正した。早化粧が私の得意技になったと思いながら。
 部屋を出たら、周囲の部屋からも知った顔が飛び出してきた。玄関に走った。そこには中内社長の顔も見えた。前日、離れた駐車場から近い所へ持ってきてもらっておいた車を取りに行った。それはごく短い距離だったが、私のハイヒールは液状化した湿った砂で悲惨な状態になった。
 私の車の助手席には、グループの一人で、その辺りの地理に詳しいお花の先生に乗ってもらった。というのは、阪神高速は落ちてしまったので使えないし、地道といっても普通の道は渋滞で、京都にたどり着くのがいつになるかわからない、それなら北を回って帰ろうということになり、丹波から来ていた彼を水先案内人にして脱出を計ることに決定したからだった。
 後部座席には、作曲家、編集者、そして夫の三人が乗り込んだ。運転手の私以外は全員男性だった。先ず、ポートアイランドから出る橋まで行かなくてはならないが、その道がわからない。案内してくれることになったホテルのスタッフの車の後をそろそろと運転した。私たちのグループの車は四台だった。橋のたもとには何台かのパトカーが停まっていた。非常時だ、当然のことだろうと思ったが、警察官の一人が私たちの車に近寄って来て、ウィンドウを降ろすように命じ、こう言った時は少し驚いた。
 「今、あなたがこの橋を渡っている時に橋が落ちても、当局は責任を負いません。ホテルに引き返すなら今です」
 大変事務的な言い方だった。要するに、黙認するが、もしもの時の場合を想定してのマニュアル通りの科白だったのだろう。私たちは迷わず進んだ。ホテルに引き返すなんて馬鹿な考えがちらりとでも頭に浮かんだメンバーはいなかったと思う。後から思うと、ホテル側の独断で客を危険にさらすことは先ずないから、一応、警察とも相談の上のことだったに違いない。
 橋の上は段差ができていて、タイヤは軋んだ。この橋が落ちない間に渡りきろうとアクセルを踏み込んだ。今や、四人の男の命が私のハンドルにかかっている。新神戸トンネルが壊れていなかったら、そこを抜けて北を目指すことになっていた。町中に入ると倒壊したビルが目立ちはじめた。後になって何度もテレビ画面で見ることになる倒壊したビル群がそこにあった。運転している私は他のメンバーのように、あちこち見回すことはできなかったが、フロントガラスに広がる光景は自然に目に入ってくる。そごう百貨店が崩れ落ちているのには驚いたが、別の車に乗っていたメンバーのオフィスが入っているビルも傾いている。倒れたビルの間をトンネル目指した。早朝だったせいもあってか、通りに車の数はまだあまり多くはなかった。
 新神戸トンネルは一応トンネルの形でそこにあった。トンネルに入ることが危険かどうかなど考えている余裕はない。今はともかく前に進むしかない。トンネルを抜けると、そこには平和な朝の風景が広がっていた。表面、どこにも地震の傷痕はない。私たちは道端のレストランに入って腹ごしらえをすることにした。京都までどのくらいの時間がかかるかわからない。暖房の効いたレストランの中で食事をしコーヒーを飲みながら、四国や九州など遠くへ帰る仲間は飛行機の切符を電話で手配したりしていた。そこから京都までは渋滞にも会わず思ったより早かった。ポートピアホテルを出てから、食事時間も入れて、約3時間で京都に着いた。大阪経由で帰った車は16時間半かかったと後で聞いた。市内を走っていると、すれ違う車が皆、私の車を驚いたように見る。液状化した砂がこびりついて悲惨な状態だったに違いない。お花の先生は丹波近くで降ろし、作曲家と編集者を京都駅まで送った後、比叡山中腹の自宅へ戻った。玄関を開けると、下駄箱の上の花瓶が壁側に倒れていた。揺れが反対だと土間に落ちて木っ端微塵だったろう。夫のアトリエにある神棚の上の夥しい数の御札は多くが床に落ちていた。リビングの飾り棚の中の背の高いワイングラスが3個壊れていた。まだ使っていない新品だった。台所の食器戸棚のガラスの扉に内側からビアグラスが倒れ掛かっている。せめてそのグラスくらいは助けたかった。そっと扉を開けて手を差し入れれば助かりそうな気がしたので、ゆっくりと手を動かした。ほんとにゆっくりと。やっぱり駄目だった。ビアグラスは私の掌に一瞬止まったように感じたが、次の瞬間、床の上で真っ二つになっていた。他に被害はないか家の中を見て回ったが、壊れた物はなかった。棚の上の物は多く落下していたが、幸い破損したものはなかった。驚いたことは留守番電話の録音数標示に25という数字があったことだった。たった二日留守にしただけなのに何故と思いながら再生したら、なんとその全てが全国からの地震見舞いだった。誰も私たちが神戸に行っていたことは知らない、これで京都地方もかなり揺れ、それが報道されたのだとわかった。その中の何人かに電話したが、中に一人だけ、私たちが神戸にいたことを知っている友がいた。不思議に思って訊くと、私がテレビのニュースに登場したらしい。まさか、あの難民風素っぴん風が映ったのではないだろうなと青くなったが、幸いかな、あれではなく、ビュッフェスタイルの食事を頬張っているところだったらしい。いずれにしても、あまり自慢できる場面ではなかった。何故か私はよく食べている場面をフィルムに撮られる。以前にも大覚寺がNHKに依頼して、寺の四季をビデオに作成した時、奥さんが大きく映っていると言われ、ビデオを見たら、なんと月見の宴の場面で私は大口開けて何かを頬張っている。その時私はすぐに、NHKのカメラが着物姿で思い切りおいしそうに食べている私に迫ってきたことがあったことを思い出した。考えてみると、食べている場面をよく撮られるのではなく、いつも食べているからそうなるのだろう。やれやれと思いながら冷蔵庫から飲み物を出そうと扉を開けた瞬間、瓶詰めのジュースが足の上に落ちてきた。その折りはまだ興奮状態が続いていたので、痛みに簡単に耐えられたが、この痛みはその後長い間続いて私を苦しめた。今から思うに、きっと骨にひびが入っていたのだろう。病院に行くことなど頭をかすめもしなかったのは、それから暫くの間、テレビに映し出される被災の光景と増加していく死者の数に驚き、そこから無事に生還できたという感慨の中にいたからだろう。
 震源の中心地にいた人々がテレビ画面で、自分たちの恐怖の体験を語っていた。
 「あなた、私たちも歴史の証言者なんだわ」
という私の言葉に夫も同意したが、その後で情けなさそうに言った。
 「こんな思いまでして、歴史の証人になんかなりたくない」


追記
 震源地で経験したことを、記憶が消えない間に自分なりに記録しておこうと思っている間に丸四年が過ぎてしまった。決して忘れないだろうと思っていた二日間だったが、今回、思い出しながら書こうとして、時刻やその他の細かいことで、あやふやな点が多いのに驚いた。人間の記憶とはたかだかこんなものなのか、それとも年齢から来る私の個人的な記憶力の減退か。例えば、翌朝のアナウンスの時刻、一緒に車で逃げた仲間の数、京都までの所要時間等。仲間に電話して訊ねることはせず、自分の推量で書いた。私自身の記録なのだから許してもらえるだろう。
     
浜田幹子作

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